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[地方に暮らす。[八郷編]] 記事数:7

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|第四話|自給自足の陶芸家

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 第2話に登場した柳岡夫妻もセルフビルドと自給をテーマに暮らしていましたが、八郷には他にもツワモノが存在します。今回紹介したいのは、陶芸家の飯田卓也さん(66歳)です。八郷に移住してきたのは25年前。ゆるやかな山あいの土地を知人の紹介で購入して開拓。そして取り壊しになる家や学校などから柱や扉といった建材、風呂釜、シンク、食器などなど、使えそうなものは何でももらってきて、自力で家と陶房を建て、山の湧水を生活用水に利用し、鶏とヤギを飼い、卵とミルクを自給し、奥様が畑で自分たちが食べる野菜を作っています。




知り合いに作ってもらった掘りごたつの真ん中は火鉢がおけるようになっている


自立した暮らし

飯田:昨日まで、辻信一さんの『豊かさとは何か』を読んでいたんだけど、やっぱりボクのような暮らしというのは、外とつながらないと自己満足になってしまう。社会との接点を経済的な意味である程度満足できるレベルまで持てるのが理想。焼き物やクラフトは正直売れない。それで自給率を上げるってことをやっているけど、それが社会から逃げるのではなく、社会に関わりながら自給率を上げていきたいね。

:何度かお邪魔していますが、飯田さんの暮らしぶりを見てすごいと思ったところは、地形を生かして沢水をシンクに貯水して、生活用水に使っていたり、食べ物以外の部分でも自給に挑戦しているところです。



山の湧水を貯水して生活用水に使っている


飯田:何もすごくなくて、こういうのは都会のアウトドア好きとかそういう奴がやりそうなことで、いわゆる田舎の苦労を知らなくて、絵にかいたような“ミルクと蜜があふれるような場所”っていう発想ではじめたわけ。

:じゃあそれは最初、遊び心からだった?

飯田:遊びが生活そのものだったというのかな、自分のやりたいことがいわゆる自給自足だった。たまたまあそこに水がでたから、じゃああそこにわさびを植えようとかね。始めた頃は一人もの(独身)だったから、生活に追われていなかったっていうのもあるけど

:そういえば敷地内に太陽熱温水器がいくつかありますね。

飯田:解体屋から、『あるけどいる?』って言われてもらってきたんだ。材木、古材、いらない物が出たらおれのところに連絡くれって言ってあるんだ。使えそうなもの捨てたりするのはもったいないっていうのは昔からあったね。捨てないで使うっていうのは、社会に対する不満みたいのをどういう形で表すかっていうことでもあるかな。




海外生活から八郷生活まで

:30代後半の時に八郷での定住生活を始めるまでは、モノを持たない生活をしていたのではないですか?

飯田:そうだねぇ。海外生活をしていたからね…。インドでの経験だけど、インドってごみだらけで汚いイメージがあるけど、全部牛が食べるんだよね。要するにケミカルなものを使ってないということだよね。アメリカにいる時には、陶芸を特別教室で教えながら、学生が使った粘土を安く買ってそれで作品作って画廊とかに持っていくような暮らしだったんだけど、アメリカの学生たちは食堂でペーパーティッシュを使ったらパっと捨てるわけ。インドとは対照的なその様子を見た時に、豊かさとか便利さという価値観とか、エネルギーの使い方とか、アメリカ的な文明を目指すということに違和感を持ったんだよね。だから使えそうなものは何でももらうようになったのかなぁ。



飯田さんの陶芸作品


:なぜ若い時にインドやアメリカで暮らそうと思ったんですか?

飯田:兄貴が駐在でアメリカにいたんだよ。当時はアメリカなんて好きじゃなかった。でも兄貴がいたから、アメリカを通ってメキシコに行こうと思ったんだ。おれは大学出てるし英語はできると思っていたんだけど、実際には自分でもびっくりするぐらいできなかった。ショックだった。聞き取れないから、イエスもノーも答えられないわけ。それでまず語学学校に通って、その後、テキサス大学で先生をやっている人と知り合って、そこに出入りするようになり、そうこうしているうちに、陶芸を教えるという仕事をすることになった。

:飯田さんは昔から、反文明っていう感じだったんですね。

飯田:ぼくたちの世代は学生運動をやったり、社会に対する反発のようなものは強い世代だったから、そういうのはあったと思うよ。そのなかで、ぼくはたまたま田舎に目が向いたのだけれど。




八郷に戻りたい思い

:震災後の暮らしについて。災害時には田舎のほうが強いと実感しました。しかし事故直後、フクイチ(福島第一原子力発電所)から100キロのこの辺りでは、放射能の影響など不安は尽きませんでしたね。

飯田:ぼくは昔から原発に関心があって、青森の六ヶ所村(プルトニウムの再処理工場がある)に行ったりしていたんだ。原発はとても怖いと思ってきた。だからそれに対してクレームするために、電気代を自動引き落としにはしないんだ。今回の事故は、「ああ、やっぱり起きてしまった」と思ったよ。メルトダウンしたら80キロ圏内は危ないと聞いたし、250キロ圏内もダメっていう情報もあった(とすると東京もダメ)。それでこれはパニックになるなって。それでパニックになったときに、人を押し分けて逃げるのがいやだったから、先に出ることにしたんだ。逃げたんだよね。家族で、この場所を捨てるつもりで。それは無様で、持てるものすべてもって。兄貴を頼って、沖縄に行ったんだ。でも家族を連れて、仕事もしないで、ただ放浪しているというのは本当につらいね。ただ、淡々と歩き回っていただけ。もう八郷には戻れないのかなーと思うとすごく残念だった。

:わたしも一時的に京都に避難していたのですが、私も飯田さんも戻ってきたし、やっぱり戻ってきたかったですよね。

飯田:うん、それはそうだね。でもね、新規巻き直しっていうかね、30年近く培ったものをゼロにして、新天地で何か始めるっていうのはすごく大変なこと。だから、八郷でなんとかなるんだったら八郷に戻りたいと思ったよね。

:そうですね。私が関わっている八豊祭とか、やさとカフェは震災後に始まったんですが、やっぱりここ(八郷)にいることを決めたからには、ここをもっとよくしたいとか、八郷の人とのつながりを増やしたい、と考えるようになってきました。

飯田:そう、それはそうだね。福島には、そういう内的な動機があったとしても、いやおうなく住めなくなってしまっている町もある。八郷はたしかに、ぼくにとっては住めば都なのかもしれない。

飯田:震災後、こっちに戻ってきてから、電気代も2年間払わなくて、(電気を)止めるって言われて仕方なく払いはじめたけど、-1円で払うようにしている。相手に抗議の意思を主張するのにやっているのだけど、もっと建設的なやり方をしないとな、とも思ってる。うちには発電機があって、震災のときも使ったし、太陽光パネルもあるし、薪もある。水は湧き出てるし、何かあっても当面はこれで生きていけると思うしね。




これからのこと

:話を少し戻すんですが、飯田さんが最初に話してくださった、社会とつながらないと自己満足、社会から逃げるんじゃなくてというところについてもう少し聞きたいです。

飯田:人とつながることで、自分の生活を裏付けるっていうのかな、肉づけるっていうのかな。いい場所にいるというのは、体が反応する。気持ちのいい場所、自分がいきいきする場所というのがあると思う。いい場所を選んで、そこに自分を置くというのは大切。仲間も大切。よき存在になる。ただ気分がいいっていうんじゃなくて、よいエネルギーを得る。いい人たちが集まる場を自分の近くに作ることが大切だよね。

:すごくよくわかります。場所があって、やりたいこと(志事)があって、仲間がいるって大事ですよね。自ら小さな社会を作るってことですね。では最後に、この先飯田さんがやりたいことって何ですか?

飯田:震災から1年以上、何もやる気にならなかった。でも今は子育てかな。毎日を丁寧に生きているところを子どもたちに見せたいと思っている。昔は、甘やかさないというポリシーだったんだけど、うちはすごく交通が不便だから高校や部活にいく時は、必ずおれが車で送っている。全部送ってやるのも甘やかしすぎだからちょうど半分のところまで。そこからは自転車通学(飯田さんには3人のお子さんがいる。高2、中2、中1)。

 自分のやりたいことをはやく見つけてほしいなと思ってる。去年の夏、世間を見てこいと(長男を)アメリカに行かせたんだ。何百万ってかかる大学に行かせてやれる費用はないけど、海外生活の経験はさせてやりたいなって。やっぱり自分としては、海外で良いことも悪いことも含めて学んだから。

 ボクは子どもには自由にしろって言ってるけど、本当はすごく厳しいこと言ってると思う。砂漠の真ん中で、お前自由だから好きなところ行けって言われたらしゃがみこむしかないよね。
 子ども会でディズニーランドに行くことがある。でも向こうでは一切金を使わない。おにぎりを作っていって、おみやげも一切買わない。子どもはうらめしそうに見てるわけ。だから、いじけないようにいろいろしてるんだけど。子どもとしては、すごくうらめしいと思うだろうね。

 昔ロバを飼ったことがあるんだけど、子どもを学校に送っていくときに、いい車はないんだけど、ロバはいるみたいなね。かっこいい車とかじゃなくて、比べられないものがいいと思ったんだ。でも、自分はポリシーで貧乏暮らしをしているけど、それで子どもにいじけられるのはすごく怖いよ。毎年、家族で旅行するんだけど、『旅行しなくていいから、きれいな車にしようよ』とか言われたこともある。ともだちの前の家の手前で止めてとかね。でも、子どもはいつか出ていくからそれまで、子どもに何かを期待するんじゃなくてただ生き方を見せたいと思っている。とにかく今は丁寧に生きて、ちゃんと子育てするってことが一番かな。



インタビューを終えて


 インタビュー中に、近所の有機農家さんが飯田さんを訪ねてきて、ミンチを作る機械を返却して、お礼にとその方が作ったお餅や加工品などを置いていきました。飯田さんの家には自給的に生きる人たちにとって使える道具がたくさんあります。このミンチを作る機械は味噌を作るときに大量の大豆をつぶすのに使ったりします。製粉機や精米機もあります。気前がよくて面倒見のいい飯田さんを頼ってくる人は後を絶ちません。こうやって助け合うひとつのコミュニティが生まれているのです。
 大人の目から見れば、自分の人生を、ポリシーを貫いて生きている飯田さんはなかなかカッコいいのですが、選択肢や見えている世界がまだ狭い子どもたちからすればちょっぴり面倒くさくてカッコ悪く見えるかもしれません。でも自分の手に届く範囲の世界で暮らしを作り、繋がり合いながら生きていることの強さとか確かさは、いつか子どもたちにも引き継がれて、間違いなく生きる力になると思います。今とこの先しばらく自分のやることは「子育てだ」と言いきれる父としての飯田さんと出会えるインタビューとなりました。(Sachiko Kang)



骨董品のようなミンチをつくる機械


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