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[地方に暮らす。[八郷編]] 記事数:7

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|第一話|水車でつくる水車杉線香(前編)

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 石岡市八郷(やさと)地区に、筑波山から流れる沢水の音がとても涼しげに聞こえてくる、一之沢という集落があります。ここに100年以上も前から続くやりかたで、水車を動力に杉の葉をひき、お線香を作るひとがいます。駒村清明堂の5代目、駒村道廣さん。駒村さんの水車杉線香は、接着剤などを使わず杉の葉の粘りだけで作り上げられる、自然の香りのお線香です。



お線香づくりの工程


 冬の間に、近隣の山から杉の葉をとってきて、それを天日干しします。乾燥機を使って早く乾燥させることもできるけど、時間をかけてゆっくり乾燥させたほうが杉の葉の香りが飛ばなくていいんだよと駒村さんは言います。乾燥させた杉を葉と枝に分け、水車を動力に1~2日間かけてじっくりと葉をひく。まだ粗いか、もうそろそろか、水車に注ぐ水の量は切れていないか、多すぎないかなど、臼の中の杉の葉の状態は、水車小屋から聞こえてくる音で分かるのだそう。(葉を挽き始めると、夜、寝ていても気になって、水車小屋を見にくることもあるとか。)葉を挽いた粉は、杉の枝で火を起こしてお湯を沸かし、そのお湯で練り、水車小屋のとなりにある工場で、プレス機にかけられ素麺のように細長い線香が出てきます。これをカットし乾燥させたら、水車杉線香の完成です。
 昔は、お線香の乾燥は、屋外でやっていたといいます。庭いっぱいに、お線香を並べて。乾燥中に雨がふられてしまったら、いままでの作業が水の泡。だから、そのころは、空の様子を眺めながら、お線香を並べ、並べ終わっても、雲の流れ、風の向き、そんなことに注意を払いながら、仕事をしていたそうです。








 動力として使った水は、また元の沢に戻り、山からとってきた杉の枝は薪として余すところなく使われる。こうして出来上がったお線香で大切なひとを弔い、それは灰になる。そして、それを畑にまけば肥料になり、また花が咲く。
 駒村さんが、家業のお線香づくりを継いで40年近くになります。よい香りを出すための一番良いやり方でお線香をつくることを考えると、やっぱり水車で杉の葉をひくのが良い。より良いやり方を追求していたら、水車が残ったと、駒村さんは言います。



線香作りを通して、関わる人々、つながる人々



ここにあるもので、ここにしかないものを


 この辺りの子どもたちは、小学校の社会科見学で駒村さんちの水車小屋と線香工場を見学します。(少なくとも、昭和63年生まれの私は、そうでした。)正直、小学生のころは、駒村さんちの水車を見て、作り方を説明してもらい、見せてもらっても、ふーんという程度の感想だったような気がします。
 それから20年近く経って、少しだけ辺りを見渡せるようになったかなというころ、自分の育ったふるさとに駒村清明堂さんのような場所があり駒村さんのような人がいることを、うれしいと感じるようになっていました。だって、ここにあるものを材料に、ここにある水の流れを使って、ここにしかないものが作られているのですから。





こういうのいいですよね、と言ってくれる若いひとが増えてきた気がするよ


 「このあいだ、うちに大きなバイクに乗ったおにいちゃんが、たまたま迷い込んできたんだよ。せっかくだからと、水車を案内して、少ししゃべっていたとき、そのおにいちゃんが言ってたんだよね。3.11以降、都会での暮らし方に、これでいいのかなーと思うときがあるって。やっぱり、地震のときに、電気が使えない、水も出ない、電車に乗れない、家にも帰れない、っていうことがあると、今までの当たり前にしていた暮らしを振り返るようになるのかもしれないね。うちは、お線香を作るなかで、かまどでお湯を沸かしていたから、地震の時も、お湯を沸かしたりは、なんとかなった。なにも特別なことじゃないよ、普段からやっていることだったからね。」





みんながこっちだという方向に、あえて逆らってみたかった


 「このあたりは、水車を使って、米や菜種油、うどん粉などをひく仕事をしていた人たちが、仕事の場を求めて明治のはじめのころに住み始めた場所。私の生まれる前には、集落の14~15軒が水車で水力発電をして家の明かりをとって、水車のまわる風景が、この地区の風景だったんだけども。東京オリンピックの頃に、水車はなくなってしまったね。私が家業を継ぐときには、金にはならないし、嫁ももらえないよと言われてね、でも、みんながこっちだとなっている風潮だったら、ほんとにそうか?と、人とちがうことをやりたい気持ちになっちゃったんだよね。自分は、長男でここにいる、ここで何ができるか?を考えて、自分が跡を継がないということは、おやじが辞めた時点で、この仕事がなくなるということ。そんなことを考えたら、よしやってみよう!という気持ちになってしまったんだよ(笑)」





この仕事を続けてこられたのは、ひととのつながりのおかげ


 「たとえば、集落から水車が少しずつなくなっていき、近くに住んでいた車大工さんも亡くなってしまって、さて、水車小屋の修理や建て替えが出来るひとがいなくなってしまった、どうしようというときがあったんだけども。そんなとき、青年団のころからの付き合いの大工をしている萩原さんが水車をつくってくれるということになった。今は、なくなっちゃったけど、ここらへんにも青年団という組織があったんだよ。地域の20代の若手の集まり。青年学級とか青年議会とか、青年の集いとかさ、地域の若者が集まる場がたくさんあって、そこで、劇団を呼んで演劇を見たり、社交ダンスをみんなで習ってダンスパーティーをしたり、いろいろやったんだ。でも、ちょうど農業青年からサラリーマン青年に、みんな変わっていっているころでね、夜勤があったり、働く場所が地域から遠くなっていったり、なかなか集まれなくなっちゃって、青年団活動はだんだんなくなっていってしまったんだ。でも、このときの青年団活動のつながりは今も続いてるよ。水車を作ってくれている萩原さんとの付き合いのように。青年団で萩原さんとつながりがあったから、いまでもこの仕事を続けていられるのかもしれないね。」(Maki Takahashi)
(後編に続く)


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