空気公団「約束しよう」のジャケット写真のような桜を撮りたいと思っているのだ(いま確認したら、散った花びらの写真だけで桜の写真は無かった。でもその質感はまさに桜なのである。そういうことなのである)。でもぼくには才能と感性にプラスして、足りないものがある。その埋められない不足を抱えながらぼくは桜を撮る。さてぼくには何が足りないのか?
春はぼくにとって焦燥の季節であったが、今年はいくぶんかその趣が違う。ぼくはカメラを手に入れた。今までとは少し視点が違う。ズイコーデジタル14-54mmという「新しい眼」をぼくは手に入れたのだ。このことにさして意味は無いが、ぼくの中で世界がシフトしはじめていることの表徴のひとつだ。あるいはPerfume的に言うならば、「引き返せないほどの距離」があの頃の春とぼくとを(既に)隔てているのだろう。デジタル一眼レフという時代の寵児を携えるだに、歳を重ねるというのも悪くない。だがぼくは怖いのである。
そう、目の前の桜はリアルに、不足なまでに余剰に桜なのである。焦燥が、その茫洋とした姿を鮮明にあらわしたのだ。
ぼくは失った春を、取り戻すためだか僅かな残滓にすがるだか、とにかくそうして、焦るように写真を撮りためている。次回からしばらく、桜の写真をお届けしたいと思う。飽きるまで、飽きてもなお、桜である。まあ詭弁を垂流すものだ。何にせよ吟味が足りないのである。
↑散る桜の嵐にダニー・ハサウェイの「Little Ghetto Boy」(LIVE)、4分00秒過ぎのダニー魂のフェイクを聴き逃すな、むせ返るほど鮮やか過ぎて悶え死にそうポチッ
Trackback(0) Comments(6) by 雨|2008-04-14 01:01
「ゆたり」は時の広告社の登録商標です。
(登録第5290824号)