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会津若松は好きな街のひとつ。訪れるたびに新しい発見のある街です。特に七日町界隈は通り全体に懐古的かつモダンな空気が流れていて素敵です。会津若松の伝統工芸である会津漆器や木綿などの店、歴史を感じる旅館、着物ギャラリー、骨董、味噌専門店、駄菓子、カフェ、など、変わらない風情が守られているからでしょうか。時をこえて受け継がれてきた会津人ならではの頑固な気質を感じる街並なのです。また、野口英世青春通りや大町通りにも価値ある店が軒を連ねていて、歩いて散策するにはもってこいの距離なのです。
古くて価値ある建物を残すのは、簡単なことではありません。昔から継承された伝統や文化を大切に守るのも、多くの人の手が必要です。この街を歩いていると「守らなければならぬ」という会津人の心が伝わってくるのです。
白虎隊の学び舎としても知られる藩校「日新館」には、会津藩士の心構えを定めた「什の掟」という会津精神の基礎があります。
一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ
三 虚言を言うことはなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいじめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
六と七については、いらぬことかもしれませんが、「ならぬことはならぬ」の精神は、会津若松という街の整備の根底に息づいているような気がしました。今日の日本人に忘れてはならぬことでもありますよね。
会津若松に行くと必ず立ち寄るのが、鶴ヶ城の北口近くのシルクロード小美術館に併設された「西遊館」という茶房。桜の季節には窓から覗くお堀の桜が見事で、心和む「たんぽぽコーヒー」で一服するのが楽しみでしたが、少し前にメニューから消えてしまいました。しかし、前回訪れた時に「御薬園ジドバ」という不思議な自然食品を発見しました。木天蓼(またたび)や、会津和人蔘、蜂蜜などの成分を配合した、江戸時代から伝わるという「神秘みず飴」です。滋養強壮に良いとお店の方にすすめられて、ジドバ中瓶(400g/9,450円)を買って帰りました。蜂蜜のような、黒糖のような甘さと、水飴のような舌触りでとても食べやすいです。そのままでも、紅茶に溶かしても、パンに塗っても美味しくいただけます。食べた後はというと、体が内側から熱くなってくるのです。木天蓼パワーなのでしょうか、どんな栄養剤より効果はわかりやすかったです。疲れがとれない時など、スプーン一杯で効果的抜群なのです。會津藩では漢方の研究が行われていたそうで、高麗人蔘を移植し会津産和人蔘として、長崎出島からオランダや中国と交易をするようになったそうです。その秘伝を元に創製したのが「御薬園ジドバ」なのです。
この茶房は会津藩御用の茶問屋「二字屋治郎左衛門」の系譜を持つ南蛮創案菓子の老舗、上菓子司「会津葵」が運営しています。東北の会津で南蛮菓子?シルクロード?といつも疑問に思っていたのですが、会津の歴史を少しだけ調べているうち、なるほどと思えるようになりました。
文禄元年(1592)信長の後、豊臣秀吉がこの地方を託した戦国時代末期の武将、蒲生氏郷(がもううじさと)によって、黒川という地名を故郷の江国蒲生郡の若松の森にちなんで「若松」に改め、城を七層の天守閣とし、現在の鶴ヶ城に改名しました。また、郭内にあった町屋敷を郭外に移築するといった新しい町づくりや、酒や漆器、蝋燭など、現在の地場産業の基礎を作り経済効果を生み出すことに成功しました。この有能な武将は、切支丹(キリシタン)大名としても知られ、南蛮文化を積極的に取り入れてといわれています。戊辰戦争まで城内にあった、国の重文に指定されている「泰西王侯騎馬図」(神戸市立博物館蔵)は、洋画の技法で描かれた騎馬に乗った世界の将軍達の屏風絵で、布教活動に使われたものであったという説もあります。自らの洗礼名を「レオ」とし、城下に教会を建て、宣教師の家臣や多数の切支丹が住んでいたことなど、長崎(出島)から会津に数多くの南蛮文化がもたらされたといえます。
七日町通りにある、「レオ氏郷南蛮館」には蒲生氏郷に関する資料や天守閣の模型などが展示されています。会津に南蛮菓子が存在してもシルクロードの文化が受け継がれていても、不思議なことではないのです。新撰組や白虎隊といった幕末のイメージが強い会津若松ですが、奥深い歴史を辿ることで、街のあちこちにゆたりと流れる独特の文化を感じることができるのです。(YT)
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