先日、ネットニュースを読んでいたら、某お笑いタレントが
ただしいブログの書き方とか言うものを説いておった。
箇条書きになった約束事の中に、
「人の悪口は書かない」と。
こんな、小学生レベルの約束事をわざわざ書かなければならないのも、
実際にブログによって人間関係を断絶する人が
多々いらっしゃるからだろう。
ブログを書くようになったのは、いまから5~6年ほど前、
最初のホームページ「鯨かわらばんデジ」を立ち上げたころだった。
それまでは、律儀に日記をつけていた。
おもえば、わたしの日記歴は長い。
小学生のころは学校で強制的に5分間日記というものを
書かされており、
この、毎日の5分の作文が、書く事へのハードルを
かなり低くしてくれたと思っている。
密かに感謝している。
そのうち、友達と交換日記を始めた。
多いときは7人くらいの友達とノートを回していた。
書くのが大変だったが、このとき学校が「交換日記禁止令」をだし、
貴重な友達との交流が立たれてしまった。
あの禁止令の理由はいまだもって分からない。
小学校高学年から自分だけのための日記を書きはじめる。
舌足らずで人見知りが激しいわたしにとっては
よい、自己表現の場だった。
その1冊がいまもわたしの手元にあるが、
好きな男のこのことばかり書いてある。
ホームページ、SNSにつづき、サイト「ゆたり」でも
ブログを公開するようになると
いよいよわたしは物足りなくなってきた。
本音を書く場が欲しくなるのだ。
もちろん、ブログに嘘は書いていないが
(多少脚色はあるけれど・・・)
わたしの心の中の悪どい部分は
どうしたってひけらかすわけには行かないという
理性が働く。
そこで、「エマの心のうち」という日記を密かに書いているのだ。
この日記は何があっても絶対に人には見せないという
大前提の下に書いている。
誰にも見せないのだったら、なぜ書くのか。
いぜん、
「日記を記すということは、
やはり心のどこかで誰かに読んで欲しいと思っているんだよ。」
といわれたことがある。
これについては半分イエスで、半分ノーだ。
「わたしが死んでから読んでね。」
みたいなものは、確かにある。
しかし
この「エマの心のうち」にさえ、書くことができないことが
まだあるのだ。
これはたぶん、わたしが認めたくないわたしの部分。
だが、悲しいかな、この、認めたくないわたしというものが
日常、わたしを支配することがあまりにも多い。
書くという行為は、それによって、自分の姿がはっきりとしてくる。
だからつまり、はっきりさせたくないのだろう。
結局、生きるということはどこまで行っても自分との戦いなのだ。
日記とブログを通してそう思った。
1冊だけ残っている10代のころに書いた日記。
読めば、「どこでどう、間違えてしまったのだろう。」
という思いと
「こんな子供時代を生きたくせに、よくここまでそだったなあ。」
という思い。
そして、もう少し頑張れるんじゃないか、という思い・・・・。
Trackback(0) Comments(5) by 鯨エマ|2008-06-25 01:01
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