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[雨は遠いそらの上] 記事数:109

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鶏足山に登る

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気まぐれに鶏足山(けいそくさん)に行ってみることにした。栃木県との境に位置し、近くには八瓶山や花香月山、赤澤富士などが点在する。以前登った仏頂山もそうだけど、西の県境には興味をそそられる山が結構多い。ネットや本でちょっと調べて、ふらりと行ってみる。

が、あまりにふらり過ぎて、コンビニに寄ったところで財布を忘れてきてしまったことに気づく。水と食料が補給できない!ま、低山だから大丈夫かと高を括る。
七会の山間の県道を抜けていく。本当は茨城の下赤沢側から登りたかったのだけど登山口がわからず、栃木の下小貫へ抜ける細い林道の途中に「焼森の里」という場所を発見。その脇に登山口が伸びているので、ここから登ってみることにした。登山道が右奥に続いている。途中までは林道
すでに車が一台停まっている。登山者がいるのかな。
  
看板に従って作業用林道を歩いていくと、明るい雑木林の道になる。曇りの天気だけど日が差込んで、こういう低山にありがちな陰鬱な暗さが無い。気持ちよく歩ける山だなあと思った。

 
それでもしばらく行くと杉林。尾根を右に見ながら長い登りになる。展望も無く単調…。これが結構長く続くのだが尾根に乗ると今度は尾根の右側に登りが続いている。この尾根登りが今回の登山行で一番きついところ。ここを脱すれば主尾根と合流、分岐に出る。右を選べば鶏足山山頂だがひとまず左に進路をとる。鶏足山の西に位置する「焼森山」のピークをめざすのだ。

 
分岐からだいたい5分、登山開始から約30分で焼森山山頂に到着。わりと眺めが良く、南西(栃木側)と北から北東(茨城)が見渡せた。とある山頂にアンテナが見えるがあれは花香月山だろうか。しかし焼森山はその名にふさわしいというか何というか、山の東側斜面はボロボロになっている。伐採されたのだろうが、本当に焼け落ちたという感じにも見える。山頂で水を飲みながら休みたかったが水は無いし、時間もそれほど無いので先を急ぐ。
(なお後日、本を読んだら、山頂からさらに北西に下りの道が伸びていて、少し行くと雨巻山や高峰などが見渡せる好展望地があるとのこと)
  
気持ちのいい雑木林(品が良い、ともいえる)の稜線を分岐まで戻ると今度は下り、今日初の結構急な階段。少し進むと展望がひらけ、焼森山が見える(先ほどのボロボロな山容)。遠く栃木方面も見渡せ、霞みの中に芳賀富士の姿も。さらに登れば鶏足山山頂(南側ピーク)である。
でもここは樹木に囲まれて展望はなく、暗い。ここから北へ進路をとり北ピークに登りつめると、展望は一気に広がる。

こちらにも「鶏足山山頂」の標示があるのだけれど、どっちが正しいのか?標高は南ピークだけど、実質的山頂は北ピーク、みたいな。南ピークの寂しさに比べ北ピークは山名の由来を書いた看板も立ち、だいいち素晴らしい展望にベンチまである。ぼくはこういう二枚看板みたいな構造がとても好きだ。わくわくしてしまう。
北ピーク。とても眺めが良い。ああ、水が欲しい!↑奇妙なかたちをした八瓶山の姿が見える。低山を忘れてしまうくらい山の稜線が連なって見える。
さらに「護摩焚石」と「鶏石」へ至る道が北へ続いている。護摩焚石へは山頂からすぐだけど、鶏石までは少し細く険しい道を歩く。
5分ほどで断崖に鎮座する鶏石へ。
この山で修行をしていた弘法大師が鶏の鳴き声を聞き、「こんな山中に鶏?おかしくね?」と思って声のするほうへ行ってみると、このトサカの形をした岩を見つけたという伝説が残っている。「鶏足山」の名前の由来もここから来ているそうだ。

 
戻ろうとして、ショートカットぎみに山の斜面を踏み跡が続いているのを発見し、こりゃいいやと分け入ってみたものの、見事に迷ってしまった。砂利のような柔らかい地面をズズズッと下りたり這い上がったりしながら何とか登山道に復帰、迷ったらとにかく登れ、という盛金富士でのおばさんの教訓が生きた。10分か15分くらいだったと思うが、それでも「迷ったーーー!」と叫んでパニックになりそうってくらい恐怖を覚えた。よく山で遭難という話をきくが、こんな低山でも起こり得ること、無理も無い、と思った。まあ、ぼくが屁垂れだからなんだけど。
  
  
さっきまで風に緑の葉をそよがせていた木も、突然よそよそしい態度になる。土も草もみんな「知らないよ。きみが選んだことなんだから、自分で何とかしたら」と冷たく言い放つ。彼らはぼくを拒んでいるわけではない。ただ、自分で道を選べ、と言っているのだ。だからぼくは木にしがみつき、土を掻き、草を踏み、山をよじ登らなければならない。自分のことは自分でしか助けられない。それが、この自然の中で生きるうえでのルールなのだ。

↑写真はイメージです。
 
ぼくのか弱い精神では、木も土も草も、山も風も雲すらも恐ろしい敵に変わる。ぼくが彷徨うのを嘲笑っているかのような冷たく陰惨な空気、でもそれはぼくが勝手に決めつけ、勝手に怖がっているだけなのだ。自然は闇だ。そしてその闇はぼく自身の心の闇だ。自分の闇と対峙できなくて、どうして自然の中にいられよう。
 
 
山頂からすぐの護摩焚石で休憩。弘法大師がここで護摩修行をしたことから名づけられた石で、下は断崖。栃木方面と樹海が見渡せる。
こんな岩の上から山々のはるかな稜線を見たら、修行のひとつもしたくなるってのが仏の道だろう。ぼくも座禅を組もうとしたが胡坐をかいて2分で解いた。落ちたら厳酷の森へ

 
  
登りは焼森山を経由しても山頂まで1時間かからない程度、帰りは小走りで心なしか急ぐ。陽も差し相変わらず気持ちの良い山だけど、ときどき背筋に寒いものが走るのは、自然の絶対的な恐怖の一端を垣間見たからか。25分の下り。下に流れる沢の水はとても澄んでいて飲めそうだったけど、ダイオキシンとかで死にたくないので我慢。極限状態だったらどうする?どうする?さしあたり生き延びることを考えねば。今日は幸いにしてそんなに切羽詰まっていない。
 
車に戻ると、先に停まっていた車に中年の男性がいて、少し話す。こちらから登って下赤沢に下りたらしい(途中に分岐があった)。一人下赤沢の登山口で待っているから回収しに行くと言って走り去った。帰りに探したら県道脇に鶏足山登山の看板があり、下赤沢側の登山道が奥に伸びていた。
  
 
  
ぼくは甘ちゃんだが、自然の中においては即座に生命を失いかねないほどの甘ちゃんだ。生きるということを、自然から学ばなければならない、と強く思った。大袈裟なことを言っているようだけど(大袈裟で大仰だなあと自分でも思うけど)、自然は私たちのすぐ隣にあり、それはひとつの生きた概念であり生きた存在なのだということをときに優しく、ときに厳しく知らしめてくれる。
「私は恐ろしく、お前は私を恐ろしいと思うだろう。そして同時に、私を恐れる必要も無い。」と自然は語りかける。われわれは共生していくかもしれない。それは大事なことであり、同時にどうだって良いことだ。大事なことは、私たちが今生きているということだ。ぼくは秘境の大自然や守るべき世界遺産やエコなんかの話をしているのではない。それはもっと、時の流れを越えるほど大きなことであり、同時にもっと小さき、誰にも省みられることの無いことだ。この世界すべてに隙間なく”ビット”としてマップされ、同時にどこにも存在しない。それはどこまでいっても詭弁であり言葉遊びに過ぎず、確かな実感の萌芽だ。いくらかでも良いから芽吹かせたい。ぼくの心に定着させたい。そして言葉の自己増殖をするがままに任せている怠慢。まあいつかは一端くらいはつまびらかになるだろうという楽観。甘え。
  
  
*鶏足山…標高430.5m。栃木県との境、城里と笠間の境の少し北に位置する。南ピークが山頂で、そこから北へ行った見晴台からの眺めはほぼ360°。八瓶山や花香月山、芳賀富士など周辺の山々が見渡せる。ほぼ真南に仏頂山があるが、見えたっけな?殆ど標高が同じなので、気づかなかったかも。
 
*焼森山…標高423m。鶏足山の西に位置する。数年前までは山頂付近も木に覆われていたみたいのだが、麓からの作業道が通じ一気に伐採されてしまったようだ。その伐採によって特に北から北東の眺めが抜群に良くなっており、何とも言えない。
  
  
  
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↑口を開きゃエコエコって、たまらん世の中だぜ。もったいないとただ一言、どうして言えない。儲からないからだ。あるいは裏で儲けているのが許せないからだ。リソースの奪い合いだ。他人よりも一日でも長く生きたいからだ。自然はぼくから遠のく。この醜い言葉を何とかしなくちゃならない。それは非常に難しい。アメリカ人に聞いてくれ
 

» Tags:山行き,

Trackback(0) Comments(3) by 雨|2008-06-25 00:12

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