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[雨は遠いそらの上] 記事数:109

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automatic infection

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私の伯父は暇さえあれば一日中酒を飲みながら過ごす人で日本酒、ビール、ワインなど酒全般好きなのですが、土産だっつってちょっと値の張ったワインなんてえのを(つったって1000円くらいのもんですけどね笑。飲まないから相場がわからない)買っていくと喜びつつも、「良いんだよお、安いワインで。全然構わない。気にしない。何でも良いの。ワインなら。酒なら」と旨そうに酒をすすりながら言うのですが、今年のボージョレ・ヌーヴォーは美味しく飲んでくれただろうか。送ってから1日で「もう空けちゃった」とメールが届いたが。去年のボジョレー否ボージョレは結構美味しかったんすよね。
とはいえやはり、コンビニの500円赤ワインなんてのはとてもじゃないが飲めたものではないですね。苦虫走った顔で今日もcapsuleの「A.I. automatic infection」を聴きながら
 
キミと過ごしたあの記憶が消えていく automatic infection
  
のリフレインにこっそり涙する不肖雨でございます。
 
寒い寒い冬、私はやはり冬には活動できない体のようで、仕事の前にコタツに潜ってcapsuleを聴き、帰ったらコタツに潜ってcapsuleを聴き、落涙に及び「こんなにカンタンに落涙しちゃっていいのかしら」と訝っては絶望の彼方にこそ希望はあるものと甘ったれた幻想を後期資本主義社会の中に見出そうとしている糞ニートです。社会が猛烈に忌み嫌うニートですよ。
「敵を愛せ」とは誰かが言ったのでしょう、まあ誰かは言いそうです。それはアンタが勝手に生み出した敵かもしんないけれどね、派手な大砲でドンパチしてる頃はその意味では気楽で良かった、なんつうとやっぱり怒る方がいらっしゃるのでしょうが、昔は良かった、と言いたいのではありません。斯様に発展し複雑化した社会においては、「敵」とは互いに銃口を向け合うものではなくて、需要に応じて「創り出す」ものであるということです(まあ昔からそのようなものでしたが。重要なのが、その担い手が国家であった時代は終り、今では資本そのものが主役であるということです)。憎み、嫌い、打ち倒すことによって自らの利益をより増すための「敵」を社会構造の中に組み込み、社会を階層化する。これこそが我々が課せられた唯一の使命であります、目下。その営為にどのようなかたちであれ反目する連中が「彼ら」にとっての「悪・敵」といえましょう。「庶民」とは、そのような悪を駆逐するための手駒に他なりません。印象操作でどのようにでも動いてくれる、素晴らしき国民、素晴らしきおバカさん達。
つまり、私が言いたいのは、そのようなおバカな「庶民」でありつつもその庶民性を卑下しつつ嘲笑しつつ、自覚しつつ「庶民」に埋没しましょう、ということです。何を隠そう私という人間こそ「庶民」なのです。世間に踊らされ、マスコミに騙され、社会に翻弄される、庶民もいいとこであります。
表面的には「庶民」を装い、社会におべっかを使いうまく取り繕い(流行りもちょっとは追いかけなきゃ)、その実内面は「庶民」であり続ける。この「意識的なアンビヴァレンツ」こそが、後期資本主義社会において「庶民」に生まれついた私のような人間が体現しうるもっともエレガンスな生き方であると思う次第であります。
つまり、(アリバイ的に言いますが)まぁまぁ、ゆったり生きようじゃないか、ということです。前言したことを念頭に入れますと、それはたとえば流行りのJ-POPを聴いてそのメッセージ性に単純に感動。とかはじめておつかいに行ったよ泣いたり笑ったりしてママのいるおうちに帰ってきたよ、なんてかわいいのかしら健気なのかしらと単純に感動。とか(J-POP的に)ぼくたちは世界にひとつだけの個性あふるる花なんだ、とか、単純に信じられる世界、つまり世界との信頼感というのは消え失せているのだと思います。私がcapsuleを聴いて単純に感動。したのは文言においてはそうなんですけど、そこに至るまでの複雑な経緯があって、己の感情に対する懐疑性やブログに直情的に書くことへの懐疑性、などを加味したうえで、でも書きたいから書こうと思って書いているのでここではあえて言及しませんが、私が何故このような駄文をこのブログ上において発表するのか。
ゆったり生きよう、という言葉の裏には、表層的にはゆったりとした時間性を体現しつつも、その個人性に言及、乃至警告するような社会とその構成員の放つ「いかにも」な文言。に対する一定の感受性を冷徹なまでに有し分析できるだけの心の幅を常に意識していたい、という私の願望が込められています。自尊心を満たし安心感を与えてくれるような言葉。のようなものにこそ、私たちは最大限の注意と自省を傾注しなければならないでしょう(お気に入りに「あれ」を入れているようなぼくは、「敵を愛せ」とは言うに言えない低俗な人間であることがバレバレなわけですが;しかしいずれ詳らかに致しましょう。それまで社会に干されてなければ、の話ですが)。
つまり私はひねくれ者であると思われたくて、主観上はアジテーターでありたいからなんですけど、そのコンセプトが理解されるように頑張りたいと思います。何しろ無学なもんで。履歴書的には高卒、です。客観的には「はぁ?こいつ何なの?」的なまったくの無理解とされるとぼくの自尊心が半分傷つき半分満足。という分裂的なAB型になりてえな。みたいな願望も半分は満たされる、ということになりましょう。諸賢の前においてこのような醜態をさらすことに関しては、何だ僕もまだまだ若いじゃないか。と半分悦に入っておるわけなのですが半分は恥。
 
では次回はライトアップされた袋田の滝をご覧に入れましょう。口を開かず目を開き、写真を撮れば少しはマシか?
 
  
  
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↑タイトルは曲とは直接関係ありませんが、テレビをぼんやり観ていると、いつの間にか刷り込まれているんじゃないか?と思うときがありハッとします。つまり、テレビ的な文脈とか、「テレビ的なもの」に。そういうものに及ばずながらも小さな声でNO!を言っていく。ということもまあ、たまには必要なんじゃないかしら。と思うこともあります。
それにしてもこの曲はほんとに良いなあ。どう聴いても良いとしか思えないんだからこれはもうしょうがないよなあ。おそらく仮にこれが盲点だとしたら、ぼくは外部からの批判を真摯に受け止めなければならないだろうなあ。だって自分では気づけないもんなあ。だって良すぎるんだもんなあ。
というわけで聴いてみたいと思った人はどうぞ→A.I. automatic infection
いったい自分が何をしているのかわからなくなってきたなあ…
 

» Tags:階層化, 世界にひとつだけの花,

by 雨|2009-01-27 01:01

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