5年前の今日、空気公団の「こども」は発売された。
もう5年も経ったのか、とも思うしまだ5年しか経っていないのか、とも思う。
これほど色彩にあふれ、ソリッドで、やさしくきびしいアルバムをぼくは他に知らない。見たことのある景色、見たことの無い景色。頭に思い描く景色…。それらを曲が混じりあわせて、息苦しいほどの光景をぼくにまざまざと見せつける。
ぼくは思い描く。電灯の夜や風を切る緑、藍色の山並みやただ青い空、電車の窓を。結論を言えば、このアルバムはぼくにとって「旅」そのものなのだ。
少なからず思い出に結びついている音楽というのは、誰にでもあると思う。そういうのはさしつめて自分のことを考えるに、多少のあざとさがあるものだが、このアルバムには否応も無くバチンと当てはまってしまった。そんな音楽との出会いは、限られた時期の、稀なことかもしれない。それはとても幸せなことなのだろう。でもちょっぴり不幸なことかもしれない。そんな言い方は凄く、音楽に対して失礼なのだけれど。
雨の降る国道、夕暮れの鉄塔、風に揺れる緑。
見たことのある町並み、川沿いの道、調子の悪いウインカー。
夜の静けさやカーテンの向こう、
遠い雨降り。目の前の雨だれ。
そういった景色の断片が、いまだにぼくの心を締めつける。
何のことはない、それはよくある単なる青臭い思い出に過ぎない。語るほどのものじゃあない。でもぼくはそれを、大事に心の隅にしまっておいたのだ。ときどき小出しにしてみたりあざとく切り売りしてみたりしながら、それでもその鮮やかな感覚を大事に反芻しながら、めそめそしたりしながら。
ぼくは頑なに変化を拒んでいた。だが、雪が太陽の光に耐え切れないように、人の心も(たとえ頑固にそこを動かなくても)まわりの風景に影響を受けて日々変わりゆくものなのだ。
大切な気持ちが消えても、ぼくはまた笑って生きていける。その事実を認めるのが怖かっただけだ。でもそれは、ぼくにとっての「死」ではなく、単なる「変化」に過ぎないのだ。そう気づくまでに、ぼくは多くのかけがえのない日々や気持ちを無碍にしてしまった。
ぼくは風を切って走った、時速60キロを主観上でははるかに超えて。あの時の気持ちはもう二度と戻っては来ないのかもしれない。
と思っていた。
でも気持ちは移り変わるものなのだ。風景や、四季のように。桜が咲き、散っても、美しい青葉を見せるように。あの頃のぼくに言ってやりたい、「おい、俺の今の気持ちを見てみろ、お前の怖がってるもんはそんなに悪くないじゃないか」と。ぼくには何にも無い、俄爛道だと思っていた。でも、何てことだろう、空気公団は歌うのだ、
僕には何にもないよ
だからどこへでも行けるのさ
結局、また切り売りのようなことを繰返しているだけだ。この音楽を、この音楽が連れていく景色を、十全にあらわすことが出来たらいいのにな、と思う。でもそんなことをする必要なんて無いし、そんなことは出来ないのだ。
だから、ぼくは今とりあえず風景を見に出かけている。それは代替行為に過ぎないし、やっぱりあの頃と同じ過ちを繰返している。でもとりあえずぼくは、あの頃見たかもしれない風景を見に、あの頃出会えたかもしれない自分に出会いに、心もとない小さな旅をしている。気持ちを大切に抱えながら、今のうちにいろんな景色を見せておこうと思って。
ゆっくり変わっていくのは
やわらかな風景と
流れる雲みたいな季節と
単純な人の心と
何も見えない明日と
ねえ
ここにいる僕と
旅をしませんか
「旅をしませんか」
↑すぐに感傷的になっちゃうのが悪りぃ癖なんですが、いい加減気持ち悪りぃのでやめますので、ご声援も見るに堪えないもよろしくポチッ
ちなみにこの「こども」は全曲素晴らし過ぎるほど良いのですが、やはり「今日のままでいることなんて」から「旅をしませんか」までの流れ。一音一音すべてがないがしろに出来なくていとおしくて、抱きしめたくなる。こんなに鮮やかなのに決して手に入らない、渇望そのもの。Perfumeみたい(←これも悪りぃ癖)。
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Trackback(0) Comments(5) by 雨|2008-04-20 23:11
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