「長谷渓流の滝」からさらに北にある「田平(ただいら)の滝」に行ってみようと思う。舗装されてはいるもののなかなか細い道をどんどん進むのだが、早くも陽は落ちかけ不安になってくる。ぼくの旅はいつもこうだ。何かを間違えているような気がして無性に心がざわつく、そんな里山逃避行。
空気公団を口ずさみながら、挫けそうな心を何とかハンドルを握りしめ堪える。すると目の前に小さな集落がひらけてきた。ふう。
今回めざした田平の滝は道をまたいだ民家の向かい側に唐突に流れている。車を停め、滝に近づこうと坂を上っていくと、その民家の犬がけたたましく鳴きはじめ、少しどぎまぎする。集落といってもあたりは静まり返っていて、滝のどおおお、と流れ落ちる音のみだ。滝へは道を外れ少し下っていくので、ぼくの姿は犬からは見えなくなる。ほどなく鳴き止み、ひと安心。ゆっくり滝観賞とさせていただく。
落差は4~5メートルといったところ。小ぶりだし何より集落のすぐそばにあるので「滝!」という雰囲気は無いけれど、近くまで寄れるし水量もあって迫力はなかなかだ。それに、集落の中の滝ってのもなかなか素敵じゃないか。川に降りると、岩肌に無数のもみじの葉。もうちょっと早く来れば、素晴らしい紅葉を目にすることが出来ただろう。
しばらく滝をぼおっと眺めたり、写真を撮ったりしてから上に戻ると、案の定ぼくの姿を見つけたさっきの犬が、けたたたたましく鳴く。わかったわかった、すぐに帰るからそう鳴きなさんな…とひらひら手を振っていると、家の窓ががらがらっと開く。ウオッ!?とあからさまにどぎまぎする。そしてすぐぴしゃっと閉まる。あんまり良い雰囲気ではない。田舎の人もさまざまだが、あからさまによそ者を警戒する人もいる。すると玄関の戸が開き、おばあさんが出てきた。思い切って話しかけてみることに。こういうときは先手必勝である。犬は相変わらず鳴き続けている。
滝を見に来る人は結構多いようで、おばあさんは何だか慣れているような話しぶりだ。思ったよりもずっと気さくに話しかけてくれ、ほっとする。「家の近くに滝があって、良いですね」と言うと、「いんやあ、そんなことも無いヨォ。滝っつったてただの滝だもんナァ」と笑って答える。そんなもんかね。まあ、そうかもな。
この滝の近くに「弁天滝」と「河鹿沢(かじかざわ)の滝」というふたつの滝があり、前調べではこの先にあるということなのだが、そのことをきいてみるとどうやら橋が壊れてしまい通行止めになってしまっているらしい。10年前くらいの話だそうだが…。ただ前調べでは、やはり道といった道は無いみたい。長靴でもあれば容易に行けそうではある。とおばあさんにたずねると、そうなんだがなかなか骨が折れるよ、それに橋が壊れてしまって通行止めになって…いかん、これでは田舎の人特有の「無限ループ」に陥ってしまう!(これは恐ろしい。いつの間にか話が二巡三巡し、いつまでたっても先へ進まないのだ。これぞブルースというものだろう。だが寒空の下で小一時間もループにハマっているわけにはいかない!)ということで、適当に話を切り上げ、今日のところは帰ることにした。犬はおばあさんが出てきても鳴きっぱなしだったが、最後のほうは大人しくなっていた。このわんこ、「門番のわんこ」として滝を訪れる人にはちょいと有名みたいだ。またなわんこ、今度来たときもお前はけたたましく鳴くんだろうなあ。
田平の滝の近くには他にも3つの滝があって、そちらは歩いて気軽に見に行ける。ただ、ひたすら山の中を歩いていくので地味である。古い東屋があったり不動尊があったりして、暗く侘しい。日本全国にある時期膨大な数つくられたであろう東屋のあの特有のさびれかたを見ると、ある時代が過ぎていったのだなあという不思議な感慨を覚えるものである。私たちはすでに通り過ぎてしまったとして、二度とこの東屋に戻ってこないのだろうか。東屋はこのまま風雨にさらされ、さびれ続けるだけなのか。その孤独について(ちょっと気に病むほど)考えながら俺はいったい何をしているのだろう…とむなしさにふけるのも、ぼくの旅の醍醐味である。
滝はどれもとても美しいので、夏場なんかは結構訪れる人も多いのではないかと思われる。中でも菅谷不動尊の滝は一見の価値あり。これは不動尊建てちゃうようね、しょうがないよね。という説得力に満ちた、小さいが威厳に満ちた直落に谷間を抜ける風も涼やか。
by 雨|2008-01-29 02:02
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