世界中、いつの時代も、いたるところで、演劇が生まれている。
それは、祈りであったり、儀式であったり、
娯楽であったり、芸術だったり・・・・いろいろな形で表現されている。
芝居のために東京にでてきて、
東京でないと、芝居はできない!などと
大きな勘違いをしていた私は、
5年前、かんじゅく座をはじめたことで
演劇の可能性と、自分の視野の狭さを思い知った。
いま、1ヵ月後に全国シニア演劇大会を控えているが、
いままで各地の公演を見てきて
痛感していることがある。
それは、演劇の多様さ。
若手の演劇は、全国どこで見ても、予想がつくものが多い。
プロの作品を観て、
あこがれてはじめる人が多いからかもしれない。
「目指すところは一緒」という感じ・・・。
ところが!
シニア演劇は違う。
演技の質感も、取り上げるテーマも、ジャンルも、全然違う。
まさに、かれらの生活の中から生み出された、という感じがする。
先日、ドキュメンタリー映画「炭鉱に生きる」をみた。
熊本の炭鉱に、かつて、48の劇場があったそうだ。
そこで、夜な夜な芝居がもよおされ、
労働者はそれを楽しみに出かけるのだ。
人気俳優が出れば、役者の質も上がってくる。
お客の目も肥えてくる。
それらは、戦争をきっかけに、炭鉱の縮小、閉鎖にあわせて
なくなってゆき、いまはたったひとつの演劇道場があるのみだという。
芝居はどこででも、できる。
でも、お客さんがいないと成り立たない。
当たり前のことだが、演劇が、人ありき、生活ありきだということだろう。
でも、こうして、演劇が出来るためには
もうひとつ、大切な条件がある。
それは、健康な身体。
私は、シニア演劇大会の会場で、
脱原発の署名運動をすることをきめ、
それについて、各劇団に了解を取るべく、手紙を出した。
その結果は、かならずしも、賛同ばかりではなかった。
理由のひとつは
「政治色をいれてほしくない」というものだった。
私もいままでは、芸術と、社会運動を結びつけることには
懸念があったし、社会の風刺演劇であっても、
私自身が積極的に社会運動に参加することは
さけてきた。
ところが、未曾有の大震災、そして原発事故。
私たちは、よく考えなければならない時だと思う。
平和が当たり前だと思っていたが
3月に、自分たちが、いかに
自分たちの生活を知らないかを、自覚したはずなのだ。
こうして、演劇を、そのほかの趣味活動を続けるためには、
健康な身体と、お互いの交流が大前提なのだ。
いま、子供たちが部屋に閉じこもって、
お友達と遊ぶことが出来ないという現実、
何を食べたらいいのか、何を信じたらいいのか
よくわからない現実を考えれば
選択するべき道は、おのずと決まってくるはずなのだ。
と、私が言ったところで説得力がないと思ったので
昨日は脱原発を進める東京新聞社
二人の記者のはなしを聞きにいってきた。
マスコミの動き、政局のこと、一緒に聞いていた方たちの意見など
本当に貴重な話を聞くことが出来た。
で、実感したのは、やはり「しらなすぎた」ということだ。
ここで難しいのは、原発云々の話で
価値観の違う高齢者たちが、嫌気がささないように
しなければならないということ。
日本人社会特有の「村八分」に、主催の私自身がなるかもしれない。
デリケートで、難しい。
たったひとつ、皆と私との大きな違いである
「若い」(つまり未来が長い)ということが
武器になるのか、アダになるのか・・・・
でも、やっぱり考えたい。
生活のあるところに、演劇だと。
~本日のありがとう~
同級生から珈琲の注文が。
あぁ、ありがたい。うれしい。
ありがとう!
Trackback(0) Comments(4) by 鯨エマ|2011-08-27 22:10
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