なんて素晴らしい光景だろう。
家族連れから老練の兵まで、太公望たちがそれぞれの目的を持ちながら釣り糸を垂れる。
ある人は60センチオーバーのスズキを狙い、ある人は今夜のおかずのハゼを狙う。
ある人は釣りをしながら人生を考え、ある人は家族との絆を深め、ある人は彼女に良い格好を見せたがる。
釣りという行為は実に感慨深い趣味である。
自然の中に身を置きながら風を感じ、水を感じ、季節を感じる。
様々な趣味・スポーツのなかでも釣りほど特殊なものはない。だって自分の調子が良くたって相手(おさかな)の行動を見切らないと成立しない遊びだから。
そんな相手との唯一の接点が細いライン。見えない水中とのアンテナになり、わずかな変化も釣り人に伝える。いざバトルが始まれば瞬時にスポーツを成立させる生命線に変化するのだ。釣り人はこんなに重要な役割を果たしているラインに敬意を払っているのかな??
そんな釣り人たちの心を一心に受け入れてきたフィールドに目を向けてみる。
「釣り人どものゴミの跡」
なんて悲しい光景だろう。
信じられるだろうか。いい年の大人たちがためらわずに捨てていくゴミや釣り糸。
ゴミの下に覗き見えるのは「釣り券」の料金看板。それを押し倒してその上にゴミを積み重ねていく。那珂川だろうと涸沼・涸沼川だろうと釣りをする際に釣り券が必要だ。それを知っていて隠すかのような最低最悪の感性は、ほかならぬ「大人たち」の仕業だ。フィッシングの表面的な良い部分だけをつまみ食いしてウンコをたらして逃げ帰る。いや本物のウンコならば土に返り自然の恵みにもなろう・・。ただ、このゴミたちは主張するばかりで風化しないのだ。
たまに来る釣り人は、定期的に綺麗になっていることに気づくだろう。いや綺麗に処理されていることすら気づかないのかもしれない。
この清掃は、地元住民を筆頭に漁協や行政。なんと地域の子供たちが総出で綺麗にしているのだ。いい年した「大人の釣り人達」のゴミを・・・。
善良な釣り人は言うかもしれない。
「こんなことをしているのは一部の人間だけだよ。」
「こういう釣り人とは一緒にしないで欲しい」
でも僕は
「そんなこと言ってるあなたも同類」と感じている。
フィールドのゴミ問題は、何年も何年も何年も同じ行為の繰り返し。結局捨てる人たちと拾う人たちが逆転することは無い。捨てる人間は教養や道徳が無いから自分の行為に罪悪感が無い。教育されていないから善悪の判断が出来ない。そんな大人や年配が増えている。
「自分は違う」といっている釣り人も「釣り」という行為が好きならば、地域の住民の手に頼っちゃダメだ。同じ趣味を持つものの教育や責任も共有しないと「同類」と思われても仕方ないことを理解しなくちゃいけない。
自然はTVゲームじゃないからリセットできない。こんなゴミ問題だけでも、今の時代の全てが集約されているようにさえ感じる。
そう、僕の住んでいる場所は魅力ある「悪意」の吹き溜まり。川の河口なのだ。
見なくても良いもの、伏せようとするものが見えてしまう「窓」なのだ。
僕の嫌いな言葉
「旅の恥はかき捨て」→「釣りのゴミはポイ捨て」に通ずる低俗な感性だ。
恥つながりでも「聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥」は最高によい言葉だ~。
凄く好きな言葉
「一人の100歩より100人の1歩」
これ最高にいいよね!!同じ100歩でも1人が頑張るには限度があるけど100人なら200歩進むのも2歩で良いわけだからね。
もし釣り人みんながフィールドのゴミを持ち帰ったら日本の風景は「アッという間」に綺麗になるし、釣り人の社会的信用度は飛躍的に向上しちゃうだろうな!!
Trackback(0) Comments(3) by マーサカワマタ|2007-12-05 11:11
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