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「大菩薩峠解題」大菩薩峠第1巻(解題・著作年表・編纂責任)

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「大菩薩峠解題」大菩薩峠第1巻(解題・著作年表・編纂責任)
寺島柾史 著 (大菩薩峠/中里介山 著)

彩光社 発行
昭和26年5月1日(1951)〜昭和28年5月10日(1953)全20巻揃・初版 

※写真は昭和26年5月1日〜昭和28年5月10日全20巻揃・初版/¥350〜¥380(定価)
●購入先/三松堂書店(名古屋市) 代金¥13,530(送料込)
●菊判・上製本・函入・本文(第1巻507頁・第2巻550頁・第3巻504頁・第4巻511頁・第5巻551頁・第6巻496頁・第7巻562頁・第8巻544頁・第9巻590頁・第10巻502頁・第11巻468頁・第12巻508頁・第13巻518頁・第14巻472頁・第15巻482頁・第16巻516頁・第17巻441頁・第18巻428頁・第19巻463頁・第20巻415頁/解題は第1巻・478〜494頁)
●題字:道重信教/装画:横山大観/口絵:井川洗崖、木村武山、他

所蔵確認/国立国会図書館/北海道立図書館/福島県立図書館/東京都立多摩図書館/愛知芸術文化センター愛知県図書館/熊本県立図書館 (全20巻揃のみを対象)




中里介山の未完の小説「大菩薩峠」は、原稿用紙にすれば1万3000枚、活字数は約520万字の全42巻20冊にもおよぶ長編で、当時ドクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を凌ぎ「世界一長い小説」といわれていた(平成15年10月現在は、「グイン・サーガ/栗本薫」 が、山岡荘八の徳川家康全28巻を凌ぎ、本篇104巻で世界一)。この長篇小説「大菩薩峠」は、明治末年に稿を起し、大正2年(1913)介山本人が勤めていた「都新聞」に「甲源一刀流の巻」より連載。大正7年(1918)には、実弟中里幸作氏の古本屋「玉流堂」より自家製和装本として自費出版されることになる。その他、大毎、東日、読売、国民、福日などの新聞連載、介山が主宰する雑誌「隣人之友」の連載、春秋社に「大菩薩峠刊行会」を創設し単行本を続々刊行するなど、昭和19年4月28日(1944)腸チフスで急逝するまでの三十余年の長きにわたる労作であり、未完成ではあるが介山の代表作であることに違いない。「大菩薩峠」は大正の初めから新聞や雑誌によって親しまれていったことは勿論だが、新国劇などによる全国の舞台上演や、昭和26年(1951)にNHKが講談として全国放送するなど、長い時間をかけてゆっくりと国民に浸透していったようだ。また、昭和11年(1936)には日活が映画化し大評判であったが、二作目は不評だった。妥協を許さない介山と日活との対立となり、予定していた三作目は製作されなかった。





柾史はこの大作の編纂責任者として、作家・梁取三義氏とともに各巻に名前を連ねており、第一巻の巻末に掲載されている「解題」と介山の「著作年表」を著わしている。柾史は介山の生涯について『文壇を無視し、時流に媚びず、我儘一杯に振舞ひ、自由奔放に物を書き、存分のことをして死んだ一代の幸運児だ、それが羨ましい……。』と述べており、独自世界を築いた介山の生き方そのものに小説を感じていたようだ。「介山伝」を書くことを仲間に宣言していた柾史であったが、その志しは叶うことはなかった。もう一人の編集責任者である梁取氏が昭和62年(1987)に「小説・中里介山」を発行することになるが、巻末に掲載の「著作年表」は柾史によるものである。写真の「大菩薩峠」の装幀は、題字に道重信教、装画に横山大観、口絵は井川洗崖、北連三、木村武山など日本画の巨匠の作品が贅沢に使われていることからも、芸術性の高い価値のある仕事だったことがうかがえる。





梁取氏は、この壮大な企てを提案したのが柾史であったことを、雑誌「彩光」(第一巻第四号)に「寺島さんを悼む」という題で書いている。『東京は、青葉若葉、桜の花の散ったあと日毎に深まる初夏の歩み、その四月二十二日の朝、寺島さんが北海道の室蘭で亡くなられた。北海の氷と共に、六十余歳の生命も溶けて、天国へ流されたのか、思ひ出は一年前の頁をめくれば、あざやかに甦る。「大菩薩峠」を、私が手がけるきっかけを作ってくださったのはこの人だった。介山居士とも深交があり、幸作さんとは特に意の通じるこの人は、戦時中、北海道へ疎開して二十二〜三年頃から東京へ出て来ては原稿を書いていた。或る時、私のところへ来て、私の書いた「大菩薩論」を見て、「あなた、これ出版して見る気はありませんか」突然、かういひ出された。「さうですね、それならやってもいいですね」といふと、寺島さんは、その足で、すぐに羽村へ行って幸作さんに話された。編纂一切は、寺島さんと私がやることになり、十八冊を二十冊に編纂し、昨年の五月に第一冊を出しようやく全巻の半分が出ようとしている時、今や、その寺島さんは亡くなられた』。昭和22〜23年頃から晩年の柾史は、東京で独り執筆生活をすることが多かったらしい。また、梁取氏は、東京で倒れた柾史について回想している。『……昨年十一月、神田の彩光社で軽い脳溢血で倒れ、東大へ入院後順調で、十二月始めには長男、順一郎氏のいる室蘭へ帰られた。今年の夏頃にはよくなられるものと思っていたが、やっぱりいけなかったらしい。おとなしい人だったが、心の底には燃えるようなはげしさを持っている人だった。東京での生活は、一人きりで不自由な生活であったようである』。





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» Tags:昭和26年, 彩光社, 解題, 著作年表, 編纂責任, 大菩薩峠, 中里介山,

Trackback(0) Comments(2) by Yasumine|2009-08-25 11:11

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